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城島健司
シアトルマリナーズ城島健司のプロフィールや画像

城島健司について

城島健司画像   城島健司(じょうじまけんじ〉
1976年6月8日生まれ。
阪神タイガースに所属するプロ野球選手(捕手)。
日本人捕手には珍しい、闘争心をむき出しにしたプレーをする「攻撃型」捕手。プレッシャーに強く、向こうっ気も非常に強い。長打力と、座ったまま投げて盗塁を刺す強肩が武器。

城島健司アマ時代

別府大学付属高等学校(現・明豊高等学校)時代は1年の時から4番を打ち、高校通算70本塁打を記録。
3年次の1994年秋、ドラフト会議前に最初に城島健司をリストアップしたのは広島東洋カープだったが、城島健司本人はドラフト前からプロ入り拒否を表明し駒澤大学への推薦入学が決定しており、スカウト陣が二度目に会いに行ったときにはもう会えなくなっていた。
しかしドラフトでは、福岡ダイエーホークスが1位で強行指名。これには駒澤大学の当時の太田監督も怒りを隠せず、「今後、ダイエーには選手を入団させない」というに問題まで発展した(後に和解)。その後ダイエー監督の王貞治の説得で入団を承諾し、「ダイエー最初の根本マジック発動」とも言われた。

城島健司ダイエー・ソフトバンク時代

1995年
入団当初は辛口のバッテリーコーチ・達川光男から「こんな下手なキャッチャー見たこと無い」と言われながら打撃には非凡なところを見せ、19才直前の1995年5月31日の対オリックス・ブルーウェーブ9回戦(福岡ドーム)で代打としてプロ初出場。
7月9日の対千葉ロッテマリーンズ15回戦(千葉マリン)ではエリック・ヒルマンからプロ初安打(同時にプロ初打点)。7月14日のオリックス17回戦(福岡ドーム)ではプロ初スタメン(8番捕手)を果たした。
1996年
開幕から二軍で英才教育を受け、8月24日にウエスタン・リーグ新記録となる25本塁打を放ち、9月3日に一軍昇格。翌年以降をにらみ、残り試合をほぼ全試合先発起用された。9月10日の対近鉄バファローズ21回戦(福岡ドーム)では久保康生からプロ初本塁打を記録。オフには同僚の吉武真太郎らとともにハワイ・ウインターリーグに派遣された。
1997年
開幕より一軍のレギュラー捕手に定着。同年オールスターファン投票では、戦後生まれでは最年少となる21歳45日で捕手部門1位選出。この年打率.308(プロ野球歴代捕手史上最年少3割)、15本塁打、68打点。工藤公康・武田一浩らベテラン投手、バッテリーコーチ・若菜嘉晴の公私共の支え、ロッテから移籍してきた先輩捕手・田村藤夫の教えもあり以後不動の正捕手となる。
1999年
初の全試合出場を果たし、チーム唯一の打率3割をマークするなど、球団初のリーグ優勝・日本一に大きく貢献。またリーグ優勝のとき、号泣する。
2000年
右手の骨折により84試合の出場にとどまったが、チームはリーグ2連覇し日本シリーズに出場。シリーズタイ記録となる4本塁打を放つなど活躍した。同シリーズ敢闘賞を受賞。
2001年
長打力に磨きがかかり31本塁打を記録。この年、小久保裕紀が44本塁打、松中信彦が36本塁打、井口資仁が30本塁打し、パ・リーグ初の30本カルテットを形成。また、日本人のみの30本カルテットはプロ野球史上初であった。城島健司ベースボール記念館が故郷の長崎県佐世保市にオープン。
2002年
キャッチャーの守備についている際に打球を鎖骨に受け骨折し、出場試合数が減少。ベストナインを逃すが、ゴールデングラブ賞は受賞した。このとき城島健司の故障の穴埋めのため、日本ハムから田口昌徳が入団した。また、福岡ローカルのホークス応援番組では、城島健司がゴルフ好きであることから、骨折した鎖骨を固定していたチタンボルトをパターの一部にして城島健司にプレゼントした。
2003年
城島健司自ら「スーパーキャッチャー」のキャッチフレーズを掲げ、野村克也以来史上二人目となる捕手としての全140試合フルイニング出場を宣言、見事に達成した。7月27日のオリックス・ブルーウェーブ戦では1試合6安打を放ち、仰木彬(西鉄)と並ぶリーグタイ記録をマークするなど、打っては打率.330、34本塁打、119打点と打撃3部門全てで自己最高の数字を記録。
松中、井口、ペドロ・バルデスとともにプロ野球史上初の100打点カルテットを形成したダイハード打線の5番打者としてチームの3年ぶりのリーグ優勝に貢献した。また捕手としても斉藤和巳ら若手投手陣を引っ張り、MVPに選出された。日本シリーズでは2000年の日本シリーズに続き、長嶋茂雄以来史上二人目となるシリーズ2度目の4本塁打を放つなど大舞台での強さを見せ、チームの日本一に大きく貢献した。
2004年
アテネオリンピック野球日本代表に選ばれ、4番打者、正捕手として活躍。チームは銅メダルを獲得した。ペナントレースではチームがリーグ1位であったにもかかわらず、プレーオフで敗れリーグ連覇を逃した。個人としては、捕手シーズン打率パ・リーグ新記録となる.338をマーク。また6月1日に通算1000本安打を達成しており、出場939試合目での達成は、捕手では1952年の土井垣武(毎日)に並ぶプロ野球史上最速記録となった。
2005年
2005年6月4日、通算200本塁打達成。7月中旬に右肩痛を訴え離脱。その後8月28日にスタメン復帰するも、9月22日の千葉ロッテマリーンズ戦で自打球を左スネに当て全治2ヶ月の骨折を負い、残りの試合には出場できなかった。この時に城島健司に代わり捕手を務めた的場直樹がプレーオフ敗退にベンチで泣き崩れたが、松葉杖の城島健司は的場の活躍を称え懸命に慰めていた。この年、怪我に苦しみながらも通算4000打数をクリア。通算打率.299はプロ野球歴代捕手中トップの成績となった。
シーズンオフ、FA権を取得しメジャーリーグ・シアトル・マリナーズと3年契約。捕手として日本人選手史上初のメジャーリーガーとなった。

城島健司シアトルマリナーズ時代

2006年
開幕戦対ロサンゼルス・エンゼルス戦(セーフコ・フィールド)に7番捕手として初出場。バートロ・コロンから第2打席にメジャー移籍後初安打を初本塁打で記録(同時に初打点)。日本人史上2人目となるデビュー戦本塁打を放つ。続く4月4日の開幕2試合目の対エンゼルス戦では、日本人史上初となる開幕から2試合連続本塁打を記録。
2006年9月19日の対レンジャーズ戦(アメリクエスト・フィールド・イン・アーリントン)では、日本人メジャーリーガーの1年目では松井秀喜を上回り最多となる17号本塁打。9月25日の対ホワイトソックス戦(USセルラー・フィールド)では、マリナーズ歴代キャッチャーの本塁打最多記録と並ぶ18号本塁打。10月1日のシーズン最終戦となるレンジャーズ戦(セーフコ・フィールド)では最終打席でバック・ロジャース(1962年 エンゼルス)の持っていたア・リーグ新人捕手シーズン最多安打記録146を44年ぶりに更新する安打を放った。
言葉の壁や戦略の違いなどで最も難しいといわれていた捕手というポジションで、見事にレギュラーの座を獲得。さらには、ルーキーで捕手という激務をこなしながらの打撃成績を評価され、シーズン終盤は3番を務めることもあった。
2007年
守備率(863守備機会で.998<規定試合以上>)と盗塁阻止率(.465<規定試合以上>)で、MLB全体トップを記録。2007 This Year in Baseball Award のDefensive Player部門に捕手で唯一ノミネートされた。
2008年
4月25日、シアトル・マリナーズと2011年まで契約を延長した。しかし城島の打撃は不振を極め、首脳陣や投手陣が成長株の捕手ジェフ・クレメントに信頼を置きはじめたこともあり、コンバートさえ囁かれはじめた。そして、同8月10日、正式にスタメン捕手の座を剥奪された事が報道された。

城島健司成長エピソード

若手時代から打撃には非凡なものがあったが、ワンバウンドの投球を捕球することができず、身体が投球から逃げほとんどが暴投もしくは捕逸になる状態であるなど捕手としては酷評され、達川光男コーチ(当時)や野村克也、森祇晶らOBからは「キャッチャーに向いてない」という声が聞こえた。周囲の人々も捕手に拘る必要性を感じておらず、一時は監督の王も一塁手にコンバートする意向を示していた。実際に一軍の公式戦でファースト、セカンドを守ったこともある。しかしこれらの意見にとらわれず、城島健司の捕手としての才能を見出し、守ったのが達川の後任である若菜嘉晴コーチ(当時)であり、本人も「もっと上手くなりたい」と持ち前の精神力と向上心で努力を重ねた。
当時ダイエーには、工藤公康と武田一浩の左右エースがいた。城島健司は来る日も来る日も工藤や武田に教えを乞い、深夜の宿泊ホテルで就寝している二人の部屋にも押しかけたことがあった。「お前、もう帰れ」と怒鳴られても、それでも城島健司は教えをあおいだ。城島健司自身、工藤や武田が登板する日は「負けたらボクのせいだ」と決め込み、負けた日には涙を流していた。その姿勢を工藤と武田は評価し、城島健司の才能を育てた。1999年に正捕手となった城島健司に対し、工藤が「今年一年間お前が出すサインには一切首を(横に)振らないから自信を持ってサインをだせ」と言った。二人の体当たりによる指導で、城島健司のリード面は磨かれていった。
城島健司のレギュラー定着直後に移籍してきた田村藤夫には既に全盛の力は無かったが、若菜が現役時代、日米両方のキャッチャーを見てきた中で、当時一番キャッチングが上手だった選手が田村であり、城島健司の手本になればと若菜が懇願して来てもらった選手である。若菜は田村のインサイドワークや無駄の無いスローイングなどをビデオに撮り、また田村の練習風景を観察するなどして城島健司は捕手として成長した。田村は1998年限りで現役を引退するが、翌年はコーチとして城島健司の成長に一役買った。
リーグを代表するキャッチャーとして名を刻み、本人もチームの代表選手としての意識が芽生え、ベストナイン・ゴールデングラブの常連になるまで成長。ダイエー生え抜き初の1億円プレーヤーとなり、小久保裕紀・松中信彦・柴原洋と「ホークス四天王」を形成した。その後もしばらくは守備で身体が逃げる、捕逸が目立つ状況が続いたが、2003年にアテネ五輪予選に出場する頃にはワンバウンドも止められる、キャッチング部分でも一流の選手として認められるほどになった。
現在では、捕手と打撃を両立しながらも、打率、本塁打数、打点、実績ともに日本人屈指の捕手と認められ、若手時代には酷評した達川も現在では「本当に頑張ったんですね。もう、素晴らしいキャッチャーですよ」と放送の解説で発言するほどに成長している。
メジャーリーグに移籍して1年目は、打者としては堂々たる成績を残した。しかし、「リード」の日米の違いや捕手のあり方で苦悩した。リードの考え方は、日本は「打者が打てない確率の高いボールを投手に投げさせるリード」に対して、メジャーは「投手に一番投げたいボールを投げさせるリード」である。城島健司がメジャーでの経験が殆ど無いこともあり、マリナーズ投手陣が首を縦に振らないことが多々あった。大ベテランのジェイミー・モイヤーとバッテリーを組んだ試合では、あるバッターが、モイヤーの内角低めの直球を大ファールした。城島は次に「外角のカーブ」を要求したが、モイヤーは城島のサインに首を振り「内角低めの直球」を要求した。モイヤーの考えとしては「どんなにいい当たりでも、100%フェアゾーンに打たれないボールの“内角低めの直球”」であった。結局、2球続けて「内角低め」を投げて三振させた。こうした城島の苦悩を描いたエピソードは、2006年のオフシーズンにテレビ放送や新聞の連載で紹介された。
歴代日本人メジャーリーガー一年目のホームラン最多数を記録し、打率は歴代日本人メジャーリーガーでイチローに次いで2位だった。
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